歴史を知れば日本旅行がもっと楽しめる!「日本の歴史」をわかりやすく解説
観光スポットや歴史的建造物など、観光でよく訪れる場所の背景を知れば、日本をもっと楽しめるはず。 その背景となるのは当然、日本の歴史です。 原始時代から綿々と続く日本の歴史の流れと、各時代ごとに起きた主な出来事を一挙にご紹介。 日本を旅行する前に、日本の歴史を勉強してみてはいかがでしょうか。
日本列島で稲作が始まり、日本で初めての国家が形成された時代を弥生時代と呼びます。
弥生時代は紀元前300年から紀元後250年までとする説や、紀元前10万年から紀元300年までとする説など、様々な説があります。
ここでは紀元前300年から紀元後250年までとする説を採用して、弥生時代を振り返っていきましょう。
弥生時代は、前期・中期・後期の3つの時期に分けられます。
それぞれの時期に何が起きたかを、時代区分ごとに紹介していきます。
弥生時代の前期には、アジア大陸および朝鮮半島から日本へ伝わった稲作が普及し、農耕文化が確立しました。
縄文時代に主流だった狩猟や木の実採集から、稲作を始めとする農耕へと食料調達方法が変化したことで、集落単位での大規模な共同生活が定着します。
稲作が普及していく中で、様々な農機具が作られ、米の生産量が増えていきました。
生産量が消費量を超えて、余分な量を蓄えられるようになると、たくさんの米を蓄える人々も現れ、集落単位で富の差が生まれました。
そして、貧しい集落が豊かな集落を襲うなど、紛争が始まります。
別の集落に攻められないように、周囲に堀を巡らせた「環濠集落」が築かれ、集落内の結束を維持するための決まり事なども厳格化していきました。
集落間の紛争は激しくなっていき、強い集落が弱い集落を支配下に置いて、小さな国として形を成していきました。
国内で人々を統括する首長に権力が集中し、王と呼ばれる存在も現れました。
王と呼ばれた人々が亡くなると、土や石を積み重ねて丘状に造営した墳丘墓に葬られました。
弥生時代後期、2世紀後半に日本初の大規模戦争である「倭国大乱(わこくたいらん)」が起きます。
「倭国大乱」が起きた原因には様々な説がありますが、倭国内での王位継承を巡る勢力争いとされる説と、地球規模の寒冷化の影響による土地収奪争いとする説が有力とされています。
「倭国」とは、中国の複数の史書に登場する日本列島にある国家で、弥生時代の後期には大きな勢力を持っていたと考えられています。
日本で初めての大規模な戦争は、元々男王が治めていた倭国の王の座に、巫女である卑弥呼(ひみこ)が座ることで終結しました。
そして、邪馬台国(やまたいこく)を中心とした邪馬台国連合が形成され、大和政権が誕生して古墳時代へ移り変わっていきます。
稲作の普及とアジア大陸・朝鮮半島から様々な技術や素材が伝わったことで、生活の質が大きく向上した弥生時代。
弥生時代の人々の生活から、具体的にどんな変化が起きたか考えてみましょう。
弥生時代は竪穴住居が一般的な建築様式でした。
竪穴住居は半地下の造りのため、夏は涼しく冬は暖かくなり、比較的強風にも強いのが特徴です。
縄文時代からあった建築様式ですが、弥生時代の中期になると、壁に竈を設ける住居が増えるなど、様々な工夫や改良が加えられていきます。
また、食料の備蓄が可能になったことで、食料倉庫も作り始めました。
弥生時代の食料倉庫は高床倉庫と呼ばれ、竪穴住居とは異なる建築様式となっています。
高床倉庫は、柱穴のみを掘り地面まで屋根をふき下ろさない建物です。
高床倉庫には大事な米を守る、ねずみ返しも取り付けていました。
弥生時代の遺物の中でも代表的な弥生土器。
弥生土器は手で成形したあとに素焼きして、様々な形状の土器を作っていました。
土器以外にも、弥生時代には様々な道具が進化を遂げます。
その中でも弥生時代の人々の生活を大きく変えたのは、農耕具です。
土を耕すための鋤や鍬が作られたり、稲を収穫するために石包丁が使われたり、脱穀に必要な杵や臼も作られました。
農耕具によって生産性が高まり、安定して米を収穫できるようになっていきました。
弥生時代には、朝鮮半島から青銅器や鉄器が輸入され始めます。
青銅器や鉄器は武器や工具など、実用的な道具として使用されるようになっていきます。
時が経つにつれ、青銅器は祭祀にも使われるようになっていきました。
アジア大陸から機織具が伝わり、製布技術も発展していきました。
弥生時代の衣服は、布の中央に空いた穴から、頭に被る貫頭衣が一般的でした
衣服に使われていた繊維は大麻でしたが、絹も用いられるようになり、衣服の質が向上していきます。
また、染料の発明によって、デザインされた衣服も登場しました。
ただ、デザインされた模様が入った衣服が着られるのは、王族など身分の高い限られた人々だけでした。
弥生時代に生まれた富の差は紛争の原因となっただけではなく、人々の生活習慣や風習も変えていきました。
弥生時代に生まれ、根付いた風習がどのようなものだったかを紹介していきましょう。
富を持った人々は蓄えた米を、中国や朝鮮半島から運ばれてきた青銅器や鉄器などと交換し、自身の墓に埋める風習が出来ていきます。
弥生時代の後期には、当時の有力者とそれ以外の人々では、住居もお墓も分かれていました。
また、有力者は同じ集落の人々に指示して、自身の住居やお墓を作っていたようです。
富の差が生まれたことで、支配する人と支配される人という身分の差が生まれました。
弥生時代には、木製の棺に人を葬る風習が朝鮮半島から伝わり、定着していきました。
また、再葬墓と呼ばれる埋葬方法も一般的で、遺体を一度葬って骨だけになると、遺体を壺や甕などに入れて埋めていました。
再葬する時に掘り出した親族の指の骨や歯を首飾りにして身につけていたとされています。
総面積117ヘクタールと日本最大級の弥生時代の遺跡で、国の特別史跡にも指定されている「吉野ヶ里歴史公園」。
出土品や資料を元に復元された弥生時代が100棟近くあるため、弥生時代にタイムスリップしたような気分が味わえます。
弥生時代の日本の風景を目にしたい方は、訪れてみてはいかがでしょうか。