歴史を知れば日本旅行がもっと楽しめる!「日本の歴史」をわかりやすく解説
観光スポットや歴史的建造物など、観光でよく訪れる場所の背景を知れば、日本をもっと楽しめるはず。 その背景となるのは当然、日本の歴史です。 原始時代から綿々と続く日本の歴史の流れと、各時代ごとに起きた主な出来事を一挙にご紹介。 日本を旅行する前に、日本の歴史を勉強してみてはいかがでしょうか。
1336年から1392年の約60年間続いた南北朝時代。
朝廷は南朝と北朝に分かれ、幕府も内部で対立し、混迷を極めた時代と言っても過言ではありません。
そんな混迷を極めた南北朝時代の流れと文化を振り返っていきましょう。
天皇が同時期に二人存在し、朝廷も二つに分かれ、さらには幕府も内部分裂した南北朝時代。
武士の間でも混乱が広がり、混迷を極めていく中で、どのように朝廷と幕府がまとまっていったのかを振り返っていきましょう。
鎌倉時代中期、皇室には大覚寺統(だいかくじとう)と持明院統(じみょういんとう)の2つの皇統(天皇の血筋)がありました。
鎌倉幕府が定めた交代制によって、2つの皇統が交互に天皇を務める形が続きます。
しかし、どちらの皇統も自身の皇統が正当だと思っており、交代制への不満が高まっていきました。
大覚寺統である「後醍醐天皇(ごだいごてんのう)」は、自らの子孫に皇位を継承させるために鎌倉幕府を倒幕。
後醍醐天皇は天皇を中心とした公家と武家で区別がない、天皇中心の政治を理想とする「建武の新政」 を始めます。
理想とは異なり、実際には公家に比べて武家が冷遇される傾向にあり、倒幕の実働部隊だった武士の間で、後醍醐天皇への不満が高まっていきました。
武将・足利尊氏(あしかが たかうじ)と、その弟である足利直義(あしかがただよし)が挙兵し、湊川の戦いで後醍醐天皇は敗れます。
建武の新政はわずか2年で終わりを迎え、足利尊氏が持明院統の光明天皇(こうみょうてんのう)を擁立し、室町幕府を開きました。
湊川の戦いに敗北した後醍醐天皇は、京都から奈良の吉野に逃れます。
戦に敗北しても諦めなかった後醍醐天皇が自身の正当性を主張したことで、
・大覚寺統の後醍醐天皇が治める「南朝」
・足利尊氏が擁立した持明院統の光明天皇が治める「北朝」
と、二人の天皇と二つの朝廷が存在する稀有な時代が始まりました。
北朝の天皇を擁立し、幕府を開いた足利尊氏ですが、弟である足利直義(あしかが ただよし)と対立していきます。
幕府内で不利となった足利直義は、足利尊氏の反対勢力となる南朝へと味方につきました。
この足利尊氏と足利直義の対立をきっかけに、幕府と武士団との主従関係が機能しなくなり、武士団は自分達の土地を確保することを目的に動くようになっていきます。
そのせいで、武士団同士でも誰が味方か敵かわからない状態になるほど対立が激しくなり、「南北朝の動乱」と名前がつくほどの大きな争いへと発展していきました。
バラバラになった武士達をまとめるために、室町幕府は有力な武士を守護(軍事指揮官・行政官)に任命して、地方に派遣します。
武士達をまとめるために守護の権限をどんどん強めていき、最終的には地域の支配者のような権限と権力を持つまでに成長し、守護大名と呼ばれるようになりました。
室町幕府の政策が上手くいったこともあり、足利義満(あしかがよしみつ)が3代将軍になる頃には幕府の力が強まり、南朝と北朝は弱体化していきました。
北朝では左大臣となっていた足利義満ですが、それだけでは満足せず、南北朝を統一した上で自分が頂点に立つことを目指します。
各地で将軍としての力を誇示した室町幕府は、遂に南朝の間で「明徳の和約」を結びます。
明徳の和約は
・大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)が交代に天皇即位すること
・皇室の所領は、一定のルールに基づいて分けること
・南朝は正式な儀式を経て、三種の神器(皇位の印として、代々の天皇が伝承する三つの宝物)を北朝へ渡すこと
と、北朝が過去の南朝の正統性を公式に認める、南朝に有利な条約でした。
しかし、弱体化した北朝に室町幕府へ反発する力はなく、北朝もこの条件を受け入れ、南北朝の統一に至りました。
統一後、足利義満は南朝側を説得し、天皇は北朝の天皇1人となります。
こうして、約60年にわたって続いた南北朝の動乱は終焉を迎えました。
混迷を極めた南北朝時代の文化からは、どのような作品が生まれたのでしょうか。
南北朝時代に生まれた作品の中でも、特に有名で時代を象徴する作品たちを簡単に紹介していきます。
未だかつてない不安定な情勢が続いた南北朝時代。
これまでの社会構造も機能しなくなり、朝廷や幕府だけでなく、庶民も混乱していた時代でした。
そんな時代だからこそ、歴史に正しい答えを求め、源平の騒乱から約150年間の歴史を公家の視点から記した「増鏡(ますかがみ)」や、神道の理論を背景に南朝の視点から皇位継承の道理を記した「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」など、様々な歴史書が生まれていきました。
日本人なら名前を聞いたことがある、「太平記(たいへいき)」が生まれた南北朝時代。
これは南北朝の動乱の全体像を描いた軍記物で、講釈という形で人々の間に広まり、後世にまで多大な影響を与えました。
これまでの軍記物は琵琶法師によって語られることが多かったため、「講釈」という形で広まったことも、太平記の特徴の一つです。
南北朝時代に縁があるスポットをご紹介。
混乱を極めた時代に思いを馳せるためにも、当時の文化に触れてみてはいかがでしょうか。
奈良県中央部の高取町にある山城跡。
南北朝時代、地元の土豪越智氏によって築かれたことが城の始まりとされています。
山麓の城下町と本丸との比高は446mで、近世の城郭としては日本一の高低差。
全国的にも屈指の名城で、国の史跡に指定されているほか、日本城郭協会の日本100名城にも認定されています。
859年、眞如法親王(しんにょほうしんのう)の開山と伝えられている真言宗のお寺。
お寺の北側には、境外仏堂として、金毘羅堂が祀られています。
寺院内で読経の間に打つ楽器「磬(けい)」が保存されているが、これは南北朝時代(14世紀)のものです。