野口英世
不断の努力で感染症の克服に貢献した細菌学者。
現在の千円札の肖像画に選ばれており、日本人では知らない人がいない「野口英世(のぐち ひでよ)」。
細菌学者として病気の原因を調べる研究に没頭し、何度もノーベル賞の候補にも上がった。
野口英世の功績と彼がどのような人生を歩み、どのような人物だったかを逸話や名言とともに紹介しよう。
ポイント
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様々な感染症の原因を特定し、感染症の克服に貢献した
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研究の成果が認められ、3回もノーベル賞の候補に上がった
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日本のお札に肖像画が使われた、初めての科学者
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貧しい家庭に生まれながらも、不断の努力と周囲の助けによって医学者として成功した
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実はお金と女性にだらしない破天荒な一面もあった
野口英世の人物年表
- 1876年
- 福島県猪苗代町に貧しい農家の息子として生まれる
- 1878年
- 左手に大やけどを負う
- 1883年
- 三ッ和小学校に入学するも、いじめられる
- 1889年
- 猪苗代高等小学校の教頭に優秀さを認められ、猪苗代高等小学校へ入学
- 1892年
- 教師や同級生からの募金で、左手の手術を受ける
- 1893年
- 左手を手術してくれた医師の元で書生として働き始める
- 1896年
- 医師免許のために上京
- 1897年
- 20歳の若さで医師免許を取得するも、医師の道を断念して研究者として歩み始める
- 1898年
- 野口清作から野口英世に改名
- 1900年
- アメリカに渡航し、ペンシルバニア大学の助手として働く
- 1904年
- ロックフェラー医学研究所に移籍
- 1905年
- 病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功し、医学会に名を知られる
- 1906年
- 小児麻痺の病原体特定、狂犬病の病原体特定などの成果を発表
- 1914年
- 東京大学より理学博士の学位を授与。ノーベル医学賞候補となる
- 1915年
- 2度目のノーベル医学賞候補となる
- 1918年
- 黄熱病の病原体発見のため、エクアドルへ派遣される
- 1920年
- 国立サン・マルコス大学医学部より名誉博士号授与。3度目のノーベル医学賞候補となる
- 1928年
- 黄熱病にかかり、死去
野口英世の功績
お札の肖像画に選ばれているため知名度は高いが、意外にも野口英世の功績を知っている人は少ない。
野口英世の最大の功績とされるのは、神経性疾患と感染症との関連を明らかにしたことだ。
具体的には、梅毒スピロヘータを麻痺性痴呆患者の脳と脊髄癆患者の脊髄に発見し、麻痺性痴呆と脊髄癆が梅毒の末期症状であることを証明した。
後に否定されたものの、病原性梅毒スピロヘータの純粋培養と黄熱病の研究も、野口 英世の功績として広く知られ、存命当時は高く評価された。
その他にも、いくつかの感染症の病原体特定および培養に成功している。
その功績を認められ、ノーベル賞の候補に3回も名前が上がった。
野口英世の生涯
輝かしい功績を持つ「野口英世」だが、決して順風満帆な生涯ではなかった。
貧しい農家に生まれながらも、自身の圧倒的な努力と周囲の援助によって、成功していった「野口英世」の生涯を振り返っていこう。
左手に負った大火傷が原因でいじめられていた幼少時代
1876年に福島県猪苗代町に、貧しい農家の息子として生まれた野口英世。
1歳の時に囲炉裏に落ちて左手に大やけどを負い、指が癒着して瘤のように変形し、農作業ができなくなる。
母親から学問で生計を立てることを諭され、小学校に入って勉学に励んだ。
しかし、左手が原因で同級生にいじめられる日々を過ごしていた。
左手の手術をきっかけに医師を目指す
辛い日々を送っていた野口英世だが、その優秀さを地元の高等小学校の教頭・小林栄(こばやし さかえ)に認められ、高等科への進学を進められる。
野口英世が高等科4年生の時に、教師や同級生らによる募金で手術費用が集まり、左手の手術を受けた。
完治はしなかったものの、医学の素晴らしさに感動したことをきっかけに医師を目指す。
高等科卒業後は左手を手術してくれた医師の書生として、住み込みで働きながら、医学の基礎を学んだ。
細菌学に出会ったのも、書生として学んでいた時だ。
医師の道を諦め細菌学者としての道を選ぶ
野口英世は上京後に、20歳という若さで医師免許を取得する。
しかし、左手が不自由だったことで、医師として必須の打診ができず、細菌学者としての道を選ぶ。
世界で活躍することを目指し、東京の様々な研究所に勤め、研究に没頭。
その後、研究所に勤めていた際に通訳と案内をしたシモン・フレキスナー博士を頼って、1900年に渡米。
アメリカの研究所で細菌学の研究に没頭
シモン・フレキスナー博士の元で蛇毒に関する研究に打ち込んでいく。
蛇毒の研究成果が認められると、1902年にはペンシルベニア大学病理学助手に、1903年にはデンマークへ留学。
デンマーク国立血清研究所でマッセン博士の指導の元で血清学を学ぶ。
1904年にデンマークからアメリカに戻ると、ロックフェラー医学研究所の所長に就任していたシモン・フレキスナー博士の一等助手となり、さらに細菌の研究へと没頭していく。
その没頭ぶりは周囲から「いつ寝ているんだ?」と聞かれるほどだった。
黄熱病の原因究明に努める日々を送るも・・・
1918年に中南米で猛威を振るっていた「黄熱病」の研究に参加し、エクアドルやアフリカに赴いて、原因究明に努めた。
予防法と治療法に目処がついたタイミングで、野口英世自身も「黄熱病」に感染してしまい、懸命な治療も虚しく、51歳の生涯の幕を下ろした。
野口英世の名言
周囲の学者から「いつ寝ているのかわからない」と言われるほど、研究に没頭していた野口英世。
努力の天才とも言える野口英世が残した名言には、「忍耐」や「努力」など苦境や逆境にある人にこそ、強く響くものが多い。
- 忍耐は苦し、されどその実は甘し
- 絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ
- 努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ
野口英世の逸話
野口英世の生涯や名言については、あえて美談と言える部分だけ紹介してきた。
しかし、実はお金や異性関係にはだらしなく、破天荒なエピソードが多い野口英世。
そんな彼の人間らしい一面が垣間見える逸話を紹介しよう。
放蕩の末に下宿を追い出される
医師免許を取得するために、恩師や友人・知人から80万円ほど集めて上京したものの、遊廓に通ったり、お酒を飲んだりを繰り返す放蕩の末に、お金がなくなって下宿を追い出されてしまったことがある。
その後もアメリカに留学するための費用だった1,000万円を芸者遊びに使ってしまうなど、お金にだらしない部分があったことがわかる逸話が多く残っている。
勘違いを恐れて改名した
放蕩を続けていたある日、友人から紹介されて「当世書生気質」という小説を知る。
その小説は「上京してきた医大生・野々口精作が、女遊びにハマって自堕落な生活を送る」という内容だった。
自身の生活と酷似していたことと、改名前の名前である「野口清作」と主人公の名前が似ていたことに驚いた野口英世。
その本の主人公のモデルが自身だと思われたくないがために、「野口清作」から「野口英世」へと名前を変えた。
改名するために他人を養子に入れさせた
「野口清作」から「野口英世」へと改名した逸話を伝えが、当時は簡単に改名できる時代ではなかった。
そのため、自身の名前である「清作」と同じ人物を見つけ、自身の家の近くに住んでいる「野口家」に養子として入れさせた。
そして、「野口清作」が二人いて紛らわしいという理由で、改名すると申し立てた。
野口英世と縁があるスポット
野口英世の業績を記念して建てられたスポットや、少年自体を過ごした通りが観光スポットとなっている。
野口英世をもっと深く知りたい方は、ぜひ訪れてみてほしい。
1. 野口英世記念館
野口英世記念館は、彼の業績を記念して1939年に開設された博物館で、彼の生家と展示室からなっている。展示室では多くの写真や彼の遺品、ロボットなどを使い、彼の生涯と研究についてわかりやすく紹介している。ファミリーで楽しみながら彼の業績を学べる体験ゲームなども好評だ。
2. 七日町通り・野口英世青春通り
七日町通りと野口英世青春通りは、会津若松市の中心部に位置するレトロな観光ストリート。明治から大正、昭和初期の建築が軒を連ね、通りを歩けば古きよき時代にタイムスリップしたかのような雰囲気を楽しめる。ふたつの通りは直角に繋がっており、全行程を歩くと20分(約1.2km)程度。
七日町通りから大町四ッ角を右折すると、野口英世青春通りへと続く。通りを南に少し進んだところに、少年だった野口英世が手のやけどの手術を受けた「旧会陽医院」があり、現在は野口英世青春館となっている。後に偉大な医者となった彼の出発点ともいえる場所だ。
写真
野口英世のプロフィール
- 名前
- 野口英世
- 生年
- 1867年
- 没年
- 1928年
- 享年
- 51歳
- 出生地
- 福島県耶麻郡三ッ和村字三城潟(現在の猪苗代町)